インタビュイー:株式会社シリウス 代表取締役社長 亀井 隆平様三洋電機がパナソニックと統合したその年、1人の元社員が新たな一歩を踏み出した。株式会社シリウス代表取締役社長・亀井隆平氏である。柔道一家に生まれ、子供時代からモノづくりへの憧れを抱いていた亀井社長。国会議員秘書を経て三洋電機に入社し、製造から営業、商品開発まで幅広い経験を積んだ。2011年、妻と二人三脚で本格的に事業をスタート。三洋電機のLED在庫処分を機にメーカー事業へと転身し、世界初の水洗いクリーナーヘッド「switle(スイトル)」、次亜塩素酸水を使った空気清浄機「Viruswasher(ウイルスウォッシャー)」など、独自製品を次々と開発。三洋電機から受け継いだ「世のため、人のためになる商品を創る」という精神を胸に、新市場の創造に挑み続けている亀井社長。その生い立ちから起業、そしてメーカーとしての成長の歩みをたどった。柔道一家に生まれ、モノづくりの道へ子供の頃からモノづくりに興味を持っていたという亀井社長。三洋電機に入社するまでの経緯を伺った。亀井社長:柔道一家に生まれ、私も子供時代から柔道をやっていました。中学生の頃からモノづくりに強い興味を持ち、高等専門学校(高専)への進学を考えていたのです。叔父が東芝に勤めていたので、「東芝に就職したい。そのために高専に進学しようと思う」と相談したところ、「14、15歳で一生を決めてはいけない。普通高校で学んで、大学に進んだ方が良い」とアドバイスをもらい、公立高校の普通科に進学しました。高校では、柔道と勉強の両立を目指していました。しかし、柔道の練習は非常に厳しく、両立は思った以上に困難でした。そのため、1年生の1学期が終わる頃には、柔道に専念しようと決意しました。大学も柔道で進学し、国士舘大学へ。父や親戚が国士舘大学の柔道部に所属していたことが、その大きな理由でした。大学卒業後は、北海道警察への入庁を考えていたのですが、大学在学中にある衆議院議員の秘書の方から「あなたも秘書をやってみないか」とお話をいただきました。その方は柔道の先輩で、父親同士の親交もありました。大学4年の時から秘書となり、住み込みで働きました。まだ学生だったので学生服を着て働いていました。2年程度で退職することになりましたが、非常に貴重な経験ができました。秘書を退職したあと、友人の父が経営する会社で働きながら、柔道を再開しました。2年のブランクがありましたが、徐々に実力が戻り大会で優勝することもありました。そんな中、ある大会で三洋電機柔道部の監督を紹介していただき、入社のお話をいただいたのです。公務員になるという話もあったのですが、子供の頃からモノづくりへの憧れがあり三洋電機への入社を決めました。三洋電機では、運動選手は管理部や総務部に配属されることが多いのですが、私は工場のサービス部に配属されました。これが非常に良い経験となりました。サービス部では、全国から返品された不良品を再生する業務を担当しました。製品の流れを人体に例えて、工場から出荷する流れを「動脈」、市場から戻ってくる返品・不良品の流れを「静脈」と呼ぶことがあります。私は「静脈」側で不良品を受け取り、それを再生して「動脈」側に戻すという業務を担当しました。おかげで、製品が市場に出ていく流れと戻ってくる流れ、その両方を経験することができました。特に、再生の過程ではモノづくりの細部にまで関わることができ、多くを学びました。この時に培った知識や感覚は、今でも私の仕事に大きく役立っています。30歳で営業職へ異動となり、北海道へ赴任しました。営業は初めてでしたが、当時の北海道トップだった本部長にご指導いただいたおかげで、業務を一通り身につけることができました。その後、営業企画を長年担当しました。エアコン、石油ファンヒーター、加湿器、空気清浄機、暖房機など多岐にわたる季節商品の企画・商品開発を手がけました。私が担当していたお客さまは取扱商品数が多く、商談の回数も多かったのですが、おかげで場数をふむことができ、自然と“商談の極意”のようなものを身につけることができました。独立―独自の発想でメーカーへの道を切り拓く三洋電機とパナソニックの統合を機に退職し、風力発電会社を経て独立。メーカーとしての第一歩を踏み出すことになった契機とは。亀井社長:三洋電機がパナソニックと統合した2010年、私は風力発電の会社へ転職しました。当時はFIT(固定価格買い取り制度)が始まり、太陽光発電だけでなく、風力発電にも注目が集まっていました。スマートグリッドの観点で見ると、三洋電機には畜エネ・省エネの技術は十分ありましたが、創エネは太陽光発電だけに限られていました。風力発電について学べれば創エネの技術が強化できると考えたのです。三洋電機の経営幹部からも協業しようとおっしゃっていただきました。しかし、1年で退職しました。経営に対する考え方の違いがあったことに加えて、当時の風力発電では創エネの技術に限界があると思ったからです。風力発電会社を退職されたあと、起業されたのでしょうか?亀井社長:会社自体は2008年に設立していました。当初は妻が始めたものでした。私が三洋電機にいた頃、次亜塩素酸水の営業に来た方がいたのです。三洋電機の事業領域とは違うのでお断りしたのですが、「販売してくれる人を探している」と相談を受けました。そこで私は妻に「こういう話があるけれど、やってみないか」と持ちかけたところ、妻は二つ返事で引き受けてくれました。その次亜塩素酸水を高齢者介護施設の社長に紹介したところ、「今使っているものと比べて品質、性能も良く、コストも抑えられる。すぐに使いたい」と言われたのです。ですが、会社組織でなければ取引できないということでした。当初、個人事業主としてやるつもりでしたが、その言葉をきっかけに会社を設立しました。当初は妻が社長でしたが、2011年に私が風力発電会社を辞めてから、私が代表取締役、妻が取締役という体制にし、本格的に事業に取り組むようになりました。私が代表になってから最初に手がけたのは、三洋電機の商品販売でした。当時普及し始めていたインターネット販売を活用し、三洋電機の「GOPAN(ゴパン)」という商品を扱いました。これは、お米から直接パンを作れる世界初の製品で、私が三洋電機時代の最後の仕事として開発に携わったものです。GOPANは農林水産大臣賞を受賞し、私自身も農林水産大臣へのプレゼンテーションを経験しました。そのご縁もあり、三洋電機の担当役員や開発仲間から「亀井さんに卸そう」と声をかけてもらえたのです。取締役副社長 亀井 理様そこからどうやって、メーカーへ転身されたのでしょうか?亀井社長:メーカーとしての始まりは、三洋電機からLEDを引き取ったことです。三洋電機はあるメーカーにOEMとして、10万本のLEDを納品する予定でしたが、納品先のブランドが倒産してしまったのです。三洋電機はこの大量の在庫をどう処理するかという問題に直面していました。問題をさらに複雑にしていたのが、三洋電機がパナソニックの傘下に入ったことでした。三洋電機のLEDは独自仕様で、見た目は両端に金属のピンがあるものの、片側は飾り(ダミー)で、実際の電気は片側からしか流れない設計になっていました。この方式はパナソニックの規格とは異なるため、パナソニックブランドでは販売できません。三洋電機の担当者は、環境に優しいLEDを廃棄してしまうことはできないと悩んでいました。それで私のところに「この商品を販売してもらえないか」という相談が持ち込まれました。そうして、私たちがLEDを販売することになりました。40WサイズのLEDはすぐに販売できたのですが、110Wの長いタイプが3万本残ってしまいました。どうしたものかと考えていたところ、あるアイデアを思いつきました。LEDは蛍光灯と違い、中の部品を比較的簡単に取り出せます。110Wタイプは両側から電気を流す構造になっていましたが、これを中央でカットし、新しく端子を作れば、1本から40Wタイプを2本作れることに気づいたのです。この発想が、私たちが「メーカー」として歩み始めるきっかけとなりました。水洗いクリーナーから空気清浄機へ―コロナ禍での急成長と試練新たな製品開発をきっかけにメーカーとして歩み始めた同社は、その後の市場環境の変化を追い風に大きな成長を遂げる。しかし急速な拡大の裏側では、制度や社会状況に左右される事業の脆さも露わになり、やがて大きな転機を迎えることとなった。亀井社長:本格的なメーカーとして初めて自社で金型から製作した製品は、2017年に販売を開始した世界初の水洗いクリーナー「switle」です。開発のきっかけは、三洋電機の元役員の方からご紹介いただいた広島県の発明家が、自作の試作品を持って私たちのもとを訪れたことです。その装置は、カーペットやソファ、マットレスにこぼれた食べ物や飲み物、さらにはペットの粗相などに対し、水を勢いよく吹き付けながら同時に吸い取るというものでした。専用のモーターは持たず、家庭用掃除機に接続して使用する仕組みで、掃除機の吸引力を利用して水の噴射と吸引を同時に行います。このユニークな構造に魅力を感じた私たちは、製品化に向けて開発をスタートしました。金型をどこで作るのか、製造はどの工場に依頼するのか、デザインは誰にお願いするのか、そして販売戦略やプロモーションはどうするのか─すべてをゼロから自社で検討しました。その一環として、プロモーションを兼ねたクラウドファンディングを実施し、一定数の販売に成功。資金調達と同時に、家電量販店との商談にもつながりました。さらに「switle」は、日経BP主催の日本イノベーター大賞で優秀賞を受賞。このプロジェクトでデザインを担当してくださった方とは、今も継続して当社製品のデザインをお願いする関係が続いています。その後、コストダウンのために、2018年に中国の元三洋電機の工場へ「switle」の製造を移管しました。海外生産に切り替えると品質が悪化すると思われますが、元三洋電機の工場ということもあり品質は向上しました。掃除機の工場だったので相性が良かったのでしょう。その工場に勤務していた、三洋電機の元社員の方との出会いが、その後の事業展開に大きな影響を与えました。その方から「三洋電機の空気清浄機は、私たちの工場で製造していました。金型は残っていませんが、製造に関する技術的なノウハウは蓄積されています。一緒に空気清浄機を開発してみませんか」という提案をいただいたのです。私は、三洋電機時代に空気清浄機の開発プロジェクトのサブリーダーを務め、知見もあったため、新しい挑戦をしようと決断しました。当時、空気清浄機の需要が高まっており、市場では製品が不足している状況でした。そんな中、新型コロナウイルスの感染が拡大し始めたのです。コロナ禍により空気清浄機への関心が急激に高まり、私たちが開発した次亜塩素酸空気清浄機「Viruswasher」も驚くほどのスピードで売れていきました。この急成長が評価され、フィナンシャルタイムズのアジア太平洋地域急成長企業ランキング2022において、100万社中370位にランクインしました。2021年3月期は売上が非常に好調でしたが、空気清浄機だけでは感染対策は不十分という指摘も出るようになりました。さらに、購入の多くを支えていた補助金制度が終了したことで、売上は急激に落ち込みました。2022年から2024年にかけては厳しい経営環境が続き、まさに“アフターコロナ”の現実を突きつけられたのです。しかし、この逆風があったからこそ、私たちは「本当に社会に必要とされる商品とは何か」を改めて見つめ直すことができました。量販店頼みではなく、自分たちの手で新しい市場を切り拓くという必要性も芽生えました。試練は続きましたが、ここで得た気づきが、次の挑戦への大きな原動力となったのです。前編では、亀井社長の生い立ちから三洋電機でのキャリア、そして株式会社シリウスが本格的なメーカーとして躍進するまでの歩みを伺った。後編では、アフターコロナの逆風を乗り越えて新市場を切り拓く挑戦と、今後の事業展望、さらに次世代を担う人材育成への想いについて掘り下げていく。