インタビュイー:株式会社カーツメディアワークス 代表取締役 村上 崇様株式会社カーツメディアワークスは、PRコンサルティングと海外向けプレスリリース配信サービス「Global PR Wire」を主軸に、企業や団体の広報・マーケティング活動を支援している。創業以来、国内にとどまらず海外企業に対しても幅広い支援を行ってきた。そんな同社を率いるのが、代表取締役の村上崇氏だ。高等専門学校(高専)でプログラミングを学んだ後、テレビ業界で経験を積み、2002年に同社を創業。以来、国内外でPR事業を展開してきたが、その道のりは決して平坦ではなかった。クーデターともいえる社内の分裂、コロナ禍による大幅赤字、そして経営基盤を固めるための資本業務提携。数々の試練の中で、村上氏が一貫して貫いてきたのは、単に「変化に対応する」のではなく、自ら「市場を創る」という姿勢である。前編では、創業の経緯や経営体制の大きな転換、そして再スタートに至るまでの村上代表の歩みを伺った。テレビマンからPRの世界へ。挑戦の原点となった密着取材ビジネスマンとしてのスタートは、テレビの制作現場。それからPRの道へと舵を切った村上代表。その原点には、20代に出会ったある経営者たちの姿があった。会社設立から事業売却まで、そこには大きな好奇心と確かな行動力があった。村上代表:元々は高専でプログラミングを学んでいました。その後、東京のテレビ制作会社に就職し、そこから私のテレビマン人生が始まりました。2000年頃、「スーパーテレビ情報最前線」という番組で、ライブドアの堀江さん、サイバーエージェントの藤田さん、テイクアンドギブニーズの野尻さんといった、当時「ベンチャー三羽烏」と呼ばれていた方々の特集を担当しました。私はその中で野尻さんの密着を受け持っていたんです。たった数歳しか違わない人が「日本を変える」と真剣に語る姿に刺激を受け、「自分も会社を立ち上げて社会を変えていきたい」と思い立ちました。当時は4畳半のアパートに住んでいたのですが、そこを有限会社として登記したのが2002年。社名の「カーツ」は、勝敗の「勝つ」を伸ばしたものです。最初は「勝つを伸ばしただけ」なんて恥ずかしかったんですよ。TV局に行くと先輩から「村上って実は社長なんだぜ」なんて言われて、「カツカツのカーツでございます」なんて挨拶をしたり。でも、そういう意味でも覚えやすい社名だなと思っていますし、今も当時の精神を思い出すきっかけになっています。起業してからも、テレビ局に派遣されて情報番組を担当していました。そこにPR会社の方々が頻繁にネタを売り込みに来るのを見て、PRという仕事に興味を持つようになったんです。調べると「プレスリリース」というものがありました。これが山のように届くのですが、そのほとんどはゴミ箱行き。当時はファックスが主流でしたが、「これからはメールの時代だ」と確信し、プログラミングのスキルを活かして「プレスリリースエンジン」というプラットフォームを立ち上げました。無料と有料の配信サービスを用意し、さらにはメディアへの掲載を成功報酬型で提供したら、15万円や30万円といった高額案件が次々と決まり、すぐに黒字化しました。とはいえ、もっとPRを学ぶ必要性を感じていました。会社員になる選択肢はなかったので、このプラットフォームを印刷系ベンチャーに売却。その資金をもとにPR会社へ出資し、役員に就任しました。ちなみに当時は結婚を控えていて、その資金をつくらなければという切実な理由もありました。「結婚資金がない」なんて恥ずかしいじゃないですか。事業を売却し、それを結婚資金に充て、余った資金を出資に回した、というのが本当のところです。そのPR会社ではテレビ露出のコンサルティングを手がけ、事業はわずか2年で2億円規模に成長しました。私は上場を視野に入れていましたが、経営方針の違いで、「自分でやった方が早い」と判断。もともとの有限会社をベースに、PR会社『株式会社カーツメディアワークス』として再スタートを切りました。その時、営業を業務委託で担当していた方がが「一緒にやりたい」と声をかけてくれ、2人でのスタート。それが今の会社の原点です。停滞か拡大か、スタートアップブームの中で描いたIPOの夢前PR会社から「村上に依頼したい」と引き続き契約してくれた顧客3社からの売上でスタートを切ったカーツメディアワークス。しかし、それだけでは成長に限界がある。順調に新規顧客を増やす中、世の中はスタートアップブームの熱気に包まれていた。村上代表は労働集約型モデルの先を見据え、会社の未来をIPOに託そうとした。村上代表:創業当初は幸運にも大きなお客様が3社あり、2人で食べていくには十分でした。ただ、それだけでは会社の成長にはつながらない。右腕である副社長がリストを作り、地道にアウトバウンド営業を重ねて新規顧客を獲得してくれたんです。ひとつ大きな案件を担当すると、同業種から新しい案件が次々に舞い込むという好循環も生まれました。とはいえ、契約がひとつ増えても、同時にひとつ減ることもある。伸びては縮みを繰り返し、思うように成長スピードが上がらない時期でした。ちょうどその頃、世の中はスタートアップブーム。私は「労働集約型のビジネスだけでは未来が見えない」と強く感じ、本格的にIPOを目指そうと決めたんです。資金調達ができる事業の柱を模索する中で目を付けたのが、当時注目され始めた「ビッグデータ」でした。膨大な情報を理解するには“見える化”が不可欠だと考え、インフォグラフィック事業やデータビジュアライゼーション事業に参入しました。さらに「数字には国境がない」という発想から、世界展開の可能性を信じ、グローバル事業も並行して立ち上げました。イタリア人やフランス人スタッフを採用し、2012年頃には海外向けプレスリリース配信サービス「Global PR Wire」の原型を構築。ベンチャーキャピタルへの売り込みも積極的に行いました。世界的なテクノロジーメディア「TechCrunch(テッククランチ)」が日本で初めて開催したスタートアップ向けのプレゼン大会に、インフォグラフィックを投稿できる新サービス「infogra.me(インフォグラミー)」で挑戦しました。結果は20社中8位と健闘しましたが、投資家に出資してもらうには十分なインパクトがなく、資金調達には至りませんでした。一方、日本人メンバーが中心だった既存のPR案件は順調でしたが、私は将来を見据えて新規事業や海外展開に注力していました。ところが、それは多額の投資を伴い、短期的な利益には結びつきにくかったのです。一方で現場の日本人メンバーからすると、「自分たちの稼ぎが新しい事業に消えていく」と映り、不満が募っていきました。私の構想を十分に共有できなかったこともあり、その違和感は次第に大きくなり、ついには仲間が次々と辞めていく事態につながってしまったのです。5人の小さな船出から「新しいPR会社のカタチ」外国人スタッフ3人、日本人デザイナー1人、そして村上代表。わずか5人での再スタート。決して順風満帆とは言えない状況の中、村上代表が選んだのは、海外のデジタルマーケティング市場へ舵を切ることだった。そこからカーツメディアワークスは再び成長の波をつかみ、独自のPR会社像を描き始める。村上代表:仲間が辞めてしまった後、残ったのは外国人スタッフ3人と入社したばかりのデザイナー、そして私。たった5人での再出発でした。けれども翌年には売上が元に戻ったんです。大きな理由は、海外向けデジタルマーケティングに舵を切ったことです。当時、TwitterやFacebookが広告ソリューションを打ち出し始めたタイミングで、いち早く対応できたのが大きかったですね。さらに、世界最大規模の総合コンサルティングファームがパートナーについてくださったことも追い風になりました。そこから広報・広告・PRの案件が増加し、日本人スタッフの採用も進みました。加えてコンテンツマーケティングにも着手。海外企業の広報支援や「Global PR Wire」を活用した国際的な情報発信、SNS運営などを一気通貫で手がけるようになり、単なる「広報の代行業務」ではなく、マーケティング全般をカバーする“コンサルティング型PR会社”という新しいスタイルが少しずつ形になっていったのです。ただ、多角的に事業を広げることで投資が分散してしまったのも事実です。頭では「安定して利益が出るPRコンサルを強化すべきだ」と分かっていても、IPOや差別化戦略といった先のことばかりを考えてしまう。結果として、グローバル事業は赤字が続きました。そんな中、コロナ禍を迎えることになったのです。逆境を力に変え、経営の再スタートを切った村上代表。その歩みは、単なる事業継続ではなく、次の成長に向けた布石でもあった。後編では、コロナ禍で浮き彫りになった事業の課題、資本業務提携によって得た経営の視点、そしてPRコンサルティングの新しい市場づくりにかける思いについて、さらに深く迫っていく。