インタビュイー:富士ベッド工業株式会社 代表取締役社長 小野 弘幸 様1957年の創業以来、「眠り」という人間の本質的な営みに誠実に向き合い続けてきた富士ベッド工業株式会社。「眠りという人間生活において最も大切なやすらぎの時間を、より豊かに、より快適にする」という理念のもと、約70年にわたり“誠実なものづくり”を貫いてきた。マットレス製造からスタートした同社は、時代の流れを読み、まだ誰も主軸としていなかった「枕」という分野へと舵を切る。創業者の先見の明と、毎日欠かさず試作を重ねる姿勢が、現在の富士ベッド工業の礎を築いた。熟練職人による技術と、社員一人ひとりの探究心が生み出す試作品は、年間およそ300個。そのなかから選ばれた数点が、OEM製品や自社ブランドとして世に送り出されている。「一人でも多くの人に、心地よい眠りを届けたい」という想いを原動力に、富士ベッド工業は“枕づくりの文化”そのものを創造してきた。そんな老舗の舵を取るのが、代表取締役社長・小野弘幸氏。建設業界から転身し、創業者との出会いをきっかけにこの道へ進んだ異色の経歴の持ち主だ。就任直後にはコロナ禍やウクライナ侵攻など、かつてない逆風が押し寄せた。それでも小野氏は、「まず自分が動く」という信念のもと、OEM中心から自社ブランドへの転換、自社工場の建設など、果敢な決断を下してきた。その原点には、創業者から受け継いだ“信頼”と“人を想うものづくり”の精神がある。前編では、富士ベッド工業が歩んできた約70年の軌跡と、小野社長がどのようにしてその理念を受け継ぎ、試行錯誤を経て「誠実な挑戦」を続けてきたのか―その物語に迫る。創業の原点―先見の明から始まった挑戦今から約70年前、当時非常に珍しかった枕づくりに挑んだ富士ベッド工業。その始まりはマットレスの製造・販売だった。時代を読み、生活者の声に応えようと下した創業者の決断が、今も続く富士ベッド工業の礎をつくった。小野社長:当社の創業は1957年。今年(2025年)で68年を迎えました。社名の通り、最初はベッド用マットレスの製造・販売から始まりました。創業者は約1年間マットレス事業を続けましたが、当時はまだベッド文化が一般に浸透しておらず、思うような成果が得られなかったそうです。市場自体は拡大の兆しを見せていたものの、少し時代の先を行き過ぎていたのかもしれません。とはいえ、その先見の明が、次の一歩を導きました。それが「枕」です。なぜ枕だったのかというと、マットレスづくりで使っていた素材をそのまま応用できたからです。当時のマットレスはコイル式のほか、パンヤ(カポック)や綿、ウールなどの天然素材を詰め込んで作られていました。そのノウハウを活かし、枕という新しい分野に挑戦したのです。結果として、生活者の支持を得ることができ、本格的な枕づくりが始まりました。当時、枕を主力とする企業はほとんどなく、まさにニッチな挑戦でした。創業者はその後、日本で初めて「機能枕」の実用新案を取得し、枕の可能性を大きく広げました。以来、富士ベッド工業では“試作”が日常になっています。本社開発室の一角にあるミシンは、創業当時から今日まで稼働を続けており、私が入社した1993年当時も、毎日1〜2個の試作品が生まれていました。その姿勢は今も変わりません。誰かに指示されてではなく、自ら課題を見つけ、試作に取り組む。そうした自発的な文化こそ、当社のものづくりの原点です。創業当時は測定機器などもなく、社員たちは自分の体で確かめながら、改良を重ねていました。互いに意見を出し合い、試行錯誤を繰り返す。その積み重ねが技術と経験として蓄積され、今の富士ベッド工業を支える確かな土台となっています。試作といっても内容はさまざまです。OEM製品のリニューアルや改良もあれば、新たなコンセプトから形をつくることもあります。近年ではIllustratorやCADなどの設計ツールを活用し、より正確でスピーディーな形状設計が可能になりました。効率は格段に上がりましたが、その分、縫製スタッフに求められる技術は一層高度になっています。当社には10年、20年とミシンに向かい続けてきた熟練スタッフが多く、彼らの職人技があってこそ、毎日のように新しい試作品を生み出せているのです。年間に誕生する試作品はおよそ300個。その中で実際に商品化されるのは、ほんの数点にすぎません。OEMとして採用されるのは、そのうちの3〜4点ほど。残りはストックとして蓄積し、次の提案や開発に活かしています。例えば、企業様から「こんな枕を作りたい」「こういう機能を加えたい」といった相談をいただくと、試作品のストックをもとにスムーズに打ち合わせが進みます。実物を前に「この形をベースにここを変えましょう」と話せば、具体的なイメージを共有しやすいのです。また、強いこだわりを持つ企業様とは、ゼロから共同開発を行うこともあります。その際は工場に足を運んでいただき、枕の理論を共有しながら一緒に形にしていきます。素材の流動性が高すぎると形が安定しにくくなったり、柔らかさを出すために複数の素材を組み合わせたり。そうした細やかな調整を重ねることで、お客様が思い描く理想の枕が完成していくのです。創業者との出会いが人生を変えた―葛藤の先に見つけた、仲間と共に働くということものづくりに惹かれ建設業界へと進んだ小野社長だったが、創業者との出会いをきっかけに富士ベッド工業へ転職。まくら課での試行錯誤に情熱を注ぐ一方で、人間関係に悩む日々を送っていた。その壁を乗り越えるきっかけをくれたのも、また創業者だったという。小野社長:私の祖父は工務店を営んでおり、幼い頃から現場に出ては木の香りや道具の音に囲まれて育ちました。自然と「ものをつくる」という行為に惹かれ、その延長で建設会社に就職しました。当時はバブル景気の真っ只中。現場は活気にあふれ、毎日が挑戦の連続でした。若さと勢いだけで前へ突き進んでいたあの頃、仕事は順調で、将来への不安もありませんでした。そんな時に出会ったのが、富士ベッド工業の創業者であり、先代会長でした。初めてお会いした瞬間から、何か惹かれるものを感じました。先代会長は一言一言に重みがあり、周囲の人を自然と安心させる包容力を持っていました。勢い任せで走っていた当時の私にとって、その穏やかで芯のある人柄はまるで正反対の存在でした。次第に強く惹かれていき、ある日かけていただいた「小野君、一緒にやろうよ」という言葉が、私の人生を決定づけました。その一言がきっかけで、私は富士ベッド工業に入社することを決めたのです。入社後、最初に配属されたのが「まくら課」でした。ここから、私の“ものづくり人生”が本格的に始まります。当時は、今のように枕に注目が集まる時代ではありませんでした。多くの人にとって枕は“寝る時に頭の下に敷くもの”という程度の認識で、機能性や健康との関係はあまり意識されていませんでした。中には「この枕で寝たら首を痛めてしまうのでは」と感じる製品も市場に出回っていたほどです。しかし、実際に枕づくりに携わるうちに、私は枕が“睡眠の質”や“体の健康”と深く結びついていることを実感しました。そこから、私の中で「良い枕とは何か」を突き詰めたいという探究心が芽生えました。まくら課ではちょうどその頃、「理想の枕を科学的に探る」という研究が始まりました。きっかけは、首の不調に悩む整形外科医との出会いです。その先生より「立っている時の自然な姿勢を、寝ている時にも再現すること」ができれば理想の枕に近づけるのではないかと提言をいただき、レントゲンを用いながら首や頸椎への負担を可視化するなどし、どんな姿勢で寝れば自然な形を保てるのかを一緒に研究しました。様々な検証の結果、立っている姿勢を横にした状態で、枕が首から後頭部、布団との隙間を自然に埋めるよう支えることができる枕が、“正しい枕の形”だという結論に至りました。この考え方は今や業界の基本理論として広く浸透していますが、当時はまったく新しい発想でした。以来、私たちはこの理念を軸に、「眠りの質」を支える枕づくりを続けています。枕づくりにまい進する一方、心の中では葛藤を抱えていたという小野社長。若き日の小野社長を悩ませていたのは、“人との関わり方”だった。小野社長:まくら課での仕事は充実していましたが、若い頃の私は人との関わり方に悩むことが多くありました。白か黒かで物事を判断しがちで、曖昧さを受け入れられなかったのです。そのため上司と衝突することもあり、会社を辞めようと考えたこともありました。そんな時、先代会長が一冊の本を手渡してくださいました。タイトルは『言葉の気力が人を動かす』。その本を読んでから、私の考え方が少しずつ変わっていきました。人は一人では何もできない。仲間がいて初めて前に進むことができる。そして、異なる意見があるからこそ最適な答えが見えてくる。白でも黒でもなく、その間にある最適解をチームで見つければいいのだと気づいたのです。それからは仲間と話し合いながら、未知の領域にも挑戦を重ねました。商品づくりにも積極的に取り組み、そこからこれまでにない新しいアイデアが次々と生まれていきました。若い頃も無我夢中で働いていましたが、苦しいとは思いませんでした。前向きな仲間たちと同じ方向を向いて働けることが、何より楽しかったのです。その経験を通して、私は「数字よりも人を大切にする」ようになりました。人が変われば、会社は必ず変わる。そう確信するようになったのです。そうして現場で経験を重ね、徐々に会社全体を見渡す役割を担うようになっていきました。先代会長や先代社長が「小野になら会社を任せられる」と言ってくださったのは、そうした変化を見てくださっていたからだと思います。そして91歳で旅立たれた先代会長は、亡くなる2日前、病床で私にこう言葉を残してくださいました。「小野君、頼んだよ」。その一言を胸に、私は新たな挑戦を始める決意を固めました。代表としての決断―逆境に立ち向かい、さらなる成長を遂げるOEM中心の体制を見直し、自社の通販サイトを立ち上げ、さらに自社工場を建設。2019年に代表に就任して以降下してきた決断は、コロナ禍や資材高騰といった逆境を乗り越えながら、メイド・イン・ジャパンの誠実なものづくりを守り抜くための挑戦でもあった。小野社長:私が代表に就任する以前、富士ベッド工業の事業の多くはOEMが占めていました。長年、黒子として、多くの企業を支えてきましたが、時代の流れや社会の変化、価値観の多様化が進むなかで、従来のやり方を見直し、時代に合った姿へアップデートする必要があると感じていました。就任後、最初に取り組んだのは自社の通販サイトの構築でした。自分たちでサイトをつくり、直接お客様に商品を届けることは想像以上に難しいものでした。すぐに結果が出るわけではなく、手応えを感じるまでには数年を要しました。OEMでは業界内での認知はありましたが、生活者の方々にとって富士ベッド工業という名前はほとんど知られていません。加えて、通販で知らない会社の商品を購入するには大きな信頼が必要です。だからこそ、まずはどんな会社がつくっているのかを知っていただくことから始めました。私たちは誠実にものづくりと向き合う会社です。安心してお使いいただけるよう、誠意を尽くして製品を届ける。その姿勢を丁寧に発信することが、通販事業の第一歩となりました。就任の翌年、コロナ禍に見舞われました。OEM中心だった当社にとって、取引先の多くが実店舗販売を行っていたこともあり、影響は甚大でした。緊急事態宣言が発令されると、売り上げは一気に半減。2か月以上その状態が続き、ようやく3か月目に少し持ち直しました。そんな中でも、社員一人ひとりが力を合わせ、会社を支えてくれました。コロナ禍の中、進めていたのが自社工場の新設計画です。それまで当社は協力工場に製造を委託していました。しかし、海外製品の台頭による価格競争の激化、協力工場の高齢化、そしてお客様の品質への期待の高まり。それらが、「このままではいけない」という危機感を私に抱かせたのです。そこで私は、自社での製造体制を整え、メイド・イン・ジャパンの品質を守り抜くことを決意しました。ですが、建設を進めていた矢先、ウクライナ侵攻が勃発。資材価格が急騰し、建設費は当初の1.5倍に膨れ上がりました。中小企業にとっては大きな負担でしたが、今やらなければ未来はないと覚悟を決め、計画を進めました。結果的に、「あの時期に建てて正解でしたよ」と建設関係者からおっしゃっていただくたびに、決断は間違っていなかったと思うのです。新工場の建設に合わせ、30名の新たな仲間を採用することを目標に掲げました。働く人が心地よく過ごせるよう、作業場や食堂を整備し、環境づくりにも力を注ぎました。当初は応募が集まるか不安もありましたが、最終的には目標人数を達成。多様な人材が集い、新しいチームが誕生しました。しかし、稼働当初の3か月は試練の連続でした。B品(軽微な規格外で正規品として出荷できない製品)が多く発生し、修正や手直しに追われ、損失も出ました。それでも誰ひとり諦めることなく、原因を共有し、改善を重ね、支え合いながら前に進みました。その過程で、社員一人ひとりがものづくりの難しさと奥深さ、そして喜びを実感し、会社全体が活気づいていったのです。協力工場に仕事を依頼しているだけでは得られなかった一体感が生まれ、私は心から自社工場を持って良かったと感じました。現在では工場の体制も安定し、品質は飛躍的に向上しました。振り返れば、この自社工場の建設こそが、富士ベッド工業を次のステージへ押し上げる大きな転機だったと感じます。これからは伸ばすフェーズとして、試作部門との連携をさらに深め、スピード感ある開発・供給体制を築いていきます。また、自社工場を中心に、長年支えてくださった協力工場とも密に連携しながら、メイド・イン・ジャパンの誠実なものづくりを次の世代へつなげていきます。コロナ禍やウクライナ侵攻といった予期せぬ出来事は、私たちに大きな試練を与えました。しかし同時に、確実に積み上げたものを次につなげる、という考え方にたどり着くきっかけにもなりました。見通せないものを無理に見通そうとせず、今できることを一つずつ積み重ねていく。この積み上げ方式こそが、不確実な時代を生き抜くための当社の指針となりました。前編では、創業から小野社長が入社に至るまでの経緯、創業者への想い、どのように葛藤を乗り越えたか。そして代表就任直後に訪れたコロナ禍やウクライナ侵攻という状況の中で下した経営判断まで、その軌跡と決断の背景を伺った。後編では現在の取り組みや、小野社長の考える組織づくりにフォーカスを当てる。