インタビュイー:株式会社白寿生科学研究所 代表取締役社長 原 浩之 様「人生100年時代」に足を踏み入れつつある現代社会。平均寿命が年々延び続けている一方で、健康上の制約なく自立した生活を送れる期間を示す「健康寿命」との間には、依然として大きなギャップが存在している。厚生労働省によれば、2025年時点における平均寿命と健康寿命の差は、男性約9年・女性約12年に及ぶ。この課題に正面から向き合ってきた企業が、株式会社白寿生科学研究所である。2025年に創業100周年を迎えた同社は、厚生労働省から承認された家庭用電位治療器「ヘルストロン」と健康食品の開発・製造・販売を行っている、健康産業のリーディングカンパニーである。さらに、上質の音楽を心地よい空間でお届けする「Hakuju Hall」の運営やプロスポーツチームへのスポンサー活動を通じて、心身両面から人々の健康を支えてきた。その原点は、100年前、病に苦しむ母を何とか救いたいという創業者の切実な想いから生まれた電位治療器「ヘルストロン」にある。時代や技術が大きく変化する中にあっても、「バランスのとれた食事」「適度な運動」「ゆとりある精神」という三位一体の考え方を「白寿健康法」として掲げ、「介護のいらない社会づくり」を目指す姿勢は一貫して変わっていない。本編では、健康産業を牽引する株式会社白寿生科学研究所・代表取締役社長・原浩之様に、同社の事業内容や「ヘルストロン」の開発秘話、銀行から家業に転じた際の葛藤についてお話を伺った。健康寿命の延伸に挑み続ける、白寿生科学研究所の事業基盤株式会社白寿生科学研究所は、家庭用電位治療器「ヘルストロン」と健康食品を事業の中核に据え、人々の健康寿命の延伸を目指してきた企業である。製品を届けることにとどまらず、直営店舗での対面を重視した独自の事業モデルによって、地域に根ざした健康支援を長年にわたり続けている。原社長:株式会社白寿生科学研究所は、1925年に長崎で祖父・原敏之が創業した「帝国レントゲン株式会社」を原点とする会社で、2025年に創業100周年を迎えました。現在は、レントゲンの技術を応用して作られた家庭用電位治療器「ヘルストロン」と健康食品の開発・製造・販売を行っています。「ヘルストロン」とは、一般の家庭用電化製品でも使用されている交流式の電気を使用した治療器です。身体に直接電気を流すのではなく、空気のように電界がやさしく身体を包み込む方式で、体内に本来備わっている電気的なバランスを整えることを目的としています。「頭痛」「肩こり」「不眠症」「慢性便秘」といった症状の緩解が認められ、1963年には旧厚生省(厚生労働省)から医療機器として承認されました。「ヘルストロン」は即時的な体感が得られる製品ではないため、量販店に並べて販売するのではなく、対面での説明や体験を重視してきました。現在、北海道から沖縄まで全国に約450の拠点「ハクジュプラザ」を展開していますが、その多くが直営店舗です。「ヘルストロン」の体験や健康食品・サプリメント販売のみならず、お客様一人ひとりと向き合い、健康について考える場として運営しています。こうした事業モデルの結果、当社では社員の約80%が営業職を占めています。メーカーでありながら営業人員の比率が高い点は、当社の大きな特徴です。単に製品を説明するのではなく、お客様の生活背景や健康に対する考え方を理解した上で、継続的な関係を築く役割を担っています。また、当社の事業は「ヘルストロン」だけで完結するものではありません。健康寿命を延ばすという目的のもと、栄養の観点から、不溶性食物繊維を含む“クマザサ”の商品や水溶性食物繊維を含む“海藻”の商品など多くの健康食品の開発・販売にも力を入れてきました。現在では、売上の約半分を健康食品が占めており、医療機器と健康食品の両輪で事業を展開しています。製品カテゴリーは異なりますが、いずれも日常的なセルフケアを重視しています。さらに、身体の健康だけでなく、心の健康にも目を向けてきました。上質な音楽を心地よい空間で届ける「Hakuju Hall」の運営や、プロスポーツチームへのスポンサー活動などを通じて、生活の質そのものを高める取り組みも行っています。こうした活動も、健康産業のリーディングカンパニーである当社の事業の一部です。私たちは、製品やサービスを通じて「健康寿命を延ばすために、社会に何ができるのか」を問い続けてきました。家庭用医療機器、健康食品、そして文化・スポーツ支援という複数の切り口を組み合わせながら、人々の暮らしに寄り添う健康支援を今後も続けていきたいと考えています。「母を想う心」と「子を想う心」から誕生した電位治療器「ヘルストロン」病に苦しむ母を救いたいと願った子の想いと、その挑戦を信じて身を委ねた母の想い。二つの心が重なった末に「ヘルストロン」は生まれたという。原社長:「ヘルストロン」の開発は、私の祖父・原敏之が20歳の頃に経験した、家族の出来事をきっかけに始まっています。母がひどい頭痛や不眠に苦しむ姿を目の当たりにし、何とか助ける方法はないかと、医師でもあった叔父に何度も相談したと聞いています。しかし、当時の医学では有効な治療法はなく、理学療法という考え方を知ることになります。経験のない未知の分野ではありましたが、祖父は「母の体は自分が治してみせる」と決意し、独学で研究に取り組み始めました。数年後、ドイツの医学雑誌で「生物の生命と電気」という見出しに出会ったことが、研究を大きく前進させます。高圧送電線の下で暮らす人々の健康状態が極めて良好であるという記述に、祖父は強い着想を得たのです。「電流ではなく、電圧だけを人体に作用させることができれば、治療の可能性は広がるのではないか」。そう考えた祖父は、交流高圧電界による治療法の研究に没頭します。工具も部品も十分にそろわない時代に試行錯誤を重ね、1928年、ついに交流高圧電界装置・100万ボルトのヘルストロン1号機を完成させました。しかし、装置が完成しても、最大の難関が残っていました。100万ボルトという数値が生む恐怖から、公開実験に参加予定だった人たちは次々と辞退してしまいます。祖父自身が被験者になると申し出ても、誰もスイッチを押そうとはしなかった。そのとき、「私が実験台に上がりましょう」と声を上げたのが、祖父の母でした。「私は息子を信じています」。そう言って、周囲の制止を振り切り、何の躊躇いもなく実験台に座ったと伝えられています。祖父は「心配はいりません」と言い切り、スイッチを入れました。実験は成功し、母と子の強い信頼が、初めての人体実験を成し遂げたのです。翌日、母は「今まで以上によく眠れ、体が楽になった」と話し、その後も次第に元気を取り戻していったといいます。この経験は、祖父にとって研究を続ける揺るぎない確信となりました。その後、臨床データの蓄積と研究を重ね、1963年、日本で初めて交流式電位治療器として旧厚生省(厚生労働省)から製造承認を取得します。こうして「ヘルストロン」は、家庭用医療機器として社会に認められる存在となりました。「母を想う心」と「子を想う心」が重なった瞬間こそが、原点であり、今も白寿生科学研究所に受け継がれている精神だと感じています。銀行から家業へ。26歳で向き合った葛藤原社長は大学卒業後、すぐに白寿生科学研究所へは入社せず、銀行に就職した。しかし26歳のとき、当時社長であった父から「家業に入ってほしい」と声をかけられ、大きな葛藤を抱えることになる。原社長:学生時代を振り返ると、特別に意識していたわけではありませんが、クラス委員長など自然とまとめ役を任されることが多かったように思います。父が経営者であることは分かっていましたし、家業がある家庭で育ったという自覚もありました。ただ、その時点で「将来は必ず継ぐ」と決めていたわけではありません。むしろ、学生の頃からずっと引っかかっていたのは、「親の会社からお金をもらって働くこと」への違和感でした。一度は自分の力で社会に出て、評価される立場に身を置いてみたい。その想いが強く、大学卒業後は銀行に就職する道を選びました。私が銀行に入社したのは、バブル崩壊後の1994年です。銀行では、企業の財務や資金の流れを間近で学びましたし、業績評価や成果主義の世界に身を置くことで自分なりに手応えも感じていました。同期との比較や厳しい環境はありましたが、「この世界でやっていける」という手ごたえを徐々に感じられるようになりました。そんな中、26歳のとき、当時社長であった父から「家業に入ってほしい」と声をかけられました。私が銀行に勤めている間に、白寿生科学研究所は大きく成長していました。それまで売上が60億円、70億円規模だった会社が、気がつけば150億円規模にまで拡大していたのです。同時に、会社には証券会社が入り、「事業承継をどうするか」「新規株式公開(IPO)を視野に入れないか」といった話が進み始めていました。書類の中には、後継者として私の名前が記されているものもありました。銀行員として外にいる間に、会社の将来像が、私の知らないところで具体化し始めていたのです。正直なところ、戸惑いはありました。銀行での仕事にやりがいを感じていましたし、すぐに家業に転じる決断ができたわけではありません。ただ、成長のスピードがあまりに速く、外から見ていても、どこか危うさを感じていたのも事実です。体は大きくなっているけれど、その動きを支える仕組みが追いついていないように見えました。銀行の仕事は、企業という組織が健全に生き続けるために、お金という血液を滞りなく巡らせることだと思っています。白寿の仕事も、本質的には同じではないか。今度は企業ではなく、人の身体そのものが対象になるだけで、健康を支えるために「巡り」を整える役割なのだと考えるようになりました。こうして私は、1998年、26歳で白寿生科学研究所に入社しました。華やかな決断だったとは思っていません。これまで外で積み上げてきた経験を、別の形で引き受ける選択だったのだと思います。前編では、株式会社白寿生科学研究所の事業内容や「ヘルストロン」の開発秘話、銀行から家業に転じた際の葛藤についてお話を伺いました。後編では、コンプライアンス改革という大きな試練への挑戦やコロナ禍における経営判断、今後の展望についてお話を伺います。原 浩之/1971年東京都出身。1994年、慶應義塾大学経済学部卒業後、株式会社あさひ銀行(現:株式会社りそな銀行)に入社。1998年、株式会社白寿生科学研究所に入社し、2000年に取締役、2003年に営業本部長、2015年に副社長を経て、2020年に代表取締役社長に就任。Hakuju Hall支配人、一般社団法人日本ホームヘルス機器協会副会長、早稲田大学総合研究機構グローバル科学知融合研究所招聘研究員を兼任。【会社概要】会社名株式会社白寿生科学研究所設立1925年代表取締役社長原 浩之事業内容家庭用・医療用ヘルスケア機器及び健康食品などの開発ならびに製造販売所在地東京本社 東京都渋⾕区富ヶ⾕1-37-5サイトURLhttps://corp.hakuju.co.jp/