インタビュイー:浜弥鰹節株式会社 代表取締役 木村忠司氏浜弥鰹節株式会社は、1947年に大阪・鶴橋で創業した老舗の鰹節メーカーである。削り鰹節や粉末だし、だしパックなど、だし関連商品の製造・卸売を手がけ、現在は飲食チェーンや食品メーカーなど約750社の顧客と取引を行っている。次世代の「食」や「だし文化」の衰退を危惧し、「和食」「だし文化」「健康」を守り・継承していく為に、様々な業態へチャレンジしている。代表取締役の木村忠司氏は、創業者である祖父・三弥氏、2代目を務めた母・幸子氏に続く3代目当主。2014年に代表に就任して以降、縮小が続く鰹節業界において、講演・啓蒙活動から大阪大学発ベンチャーとの共同研究、100%植物性だしブランド「MAGI DASHI -マジダシ-」の立ち上げまで、伝統と革新を両輪で走らせる経営に挑み続けている。前編では、浜弥鰹節株式会社 代表取締役 木村忠司氏に、創業からの歩みや家業を継ぐに至った原点、そして鰹節市場の縮小という業界全体の壁について、お話を伺った。鶴橋の市場から始まった、3代続く「出汁」のプロフェッショナル戦後まもなく、京都の醤油屋の三男坊が大阪・鶴橋に店を構えたことから、浜弥鰹節の歴史は始まった。木村代表:浜弥鰹節株式会社は、1947年に大阪・鶴橋で創業した、鰹節の製造・卸売を手がける会社です。今年で78年目を迎え、私で3代目になります。鰹節屋といっても、魚を節そのものに加工する一次加工の鰹節屋と、その節を仕入れて削り、だしパックなどに仕上げる二次加工の鰹節屋があります。当社は後者にあたり、年間で30〜40トンの鰹節を削って、現在は約750社のお客様に商品をお届けしています。当社が大阪・鶴橋にあるのは、創業者である祖父・木村 三弥の縁によるものです。祖父はもともと、京都の醤油屋の三男坊として生まれました。当時は長男が家業を継ぐのが当たり前で、三男だった祖父は丁稚奉公に出ることになり、その奉公先がたまたま鰹節屋だったのです。祖父は、乾物が有名な大阪・靱(うつぼ)で修業を積んでいたのですが、その後、戦争に行くことになります。幸い無事に帰還することができ、鶴橋に場所が空いたという縁もあって、戦後まもなく店を構えたというのが当社の始まりです。その後、祖父が急逝して、2代目として母・幸子が事業を引き継ぎました。母は鶴橋の市場を駆け回り、当社の営業基盤を一から築き上げてくれました。そして10年ほど前に、私が3代目として代表に就任しました。当社が大切にしているのは、「鰹節を通じた日本の食文化発展への貢献」という理念です。鰹節が持つ香りや旨味の力を、次世代にきちんと届けていくこと。それが、3代続いてきた当社が果たすべき役割だと考えております。母を助けたい ─ 鰹節の道に進んだ、本当の理由木村氏が3代目の道を歩み始めた原点には、夜中まで働く母の姿を見て育った、息子としての素朴な想いがあった。木村代表:私が家業を意識し始めたのは、小学生の頃です。当時、祖父が亡くなって、母が2代目として事業を引き継ぐことになりました。私はまだまだ手のかかる年齢でしたが、母は本当に大変な働き方をしていたんです。市場が動くのが朝一番ですから、鰹節屋の仕事は、朝に家を出ていたのでは間に合いません。母は、夜中の終電に乗って鶴橋まで行き、そこで泊まり込んで、朝から仕事をする。昼間に家に帰ってきて、家事をこなして、また終電で鶴橋へ向かう。そうした生活をずっと続けていました。子どもながらにその姿を見ていて、「大きくなったら、なんとか助けてあげないといけないな」と感じていました。それが、いま振り返っても、私の出発点だったと思います。正直に言うと、当時の私は鰹節そのものに特別な興味があったわけではありません。鰹節屋を継ぎたい、家業を背負いたい、というような気持ちではなく、母を助けたいという想いが一番の動機でした。ただ、すぐに家業に入るよりも、一度社会に出て外の世界を見てきた方が、役に立つだろうと考えました。そこで、新卒では不動産の営業会社に入って、3年ほど経験を積んでから、25歳頃に当社へ戻ってきました。不動産の現場で営業の基礎を学べたことは、いまの仕事にもつながっていると感じています。家業に戻ってからは、母が築いてくれた営業基盤を引き継ぎながら、少しずつ自分なりのやり方を模索してきました。そして10年ほど前に正式に代表を引き継ぎ、3代目として当社の舵取りを担うことになりました。スタート地点が「母を助けたい」という想いだったからこそ、その後の20年あまり、迷ったときに立ち返る場所もはっきりしていたように思います。1000回の講演でも届かない ─ 「出汁離れ」という業界全体の壁鰹節市場の縮小という現実を前に、木村氏は30代から、10年で約1000回の講演活動を展開した。NHK朝の連続テレビ小説の鰹節考証(※)も務めるなど、その発信力は業界随一だった。しかし浮かび上がってきたのは、「人は安きに流れる」という、もうひとつの厳しい現実だった。(※)鰹節考証とは、鰹節の歴史・製法・文化的背景・科学的特性を文献や実地検証に基づいて研究することを指し、時代劇や小説などの時代考証で鰹節に関する時代背景を監修する役割としても知られる。木村代表:当社が向き合ってきた最大の課題は、鰹節市場そのものが年々小さくなっているという、業界全体の問題です。いま鰹節市場は約550億円規模と言われているのですが、これがどんどん縮小しています。背景にあるのは、いわゆる「出汁離れ」です。昔の方は、ご家庭で当たり前のように出汁を取られていたのですが、いまはほとんどの方が、ご自身で出汁を取らなくなってしまった。当社のような鰹節屋にとっては、まさに死活問題と言える状況です。私自身、20代の後半頃からこの現実を強く意識するようになり、「このままではまずい」と感じていました。当社の取引はほとんどがBtoBですが、それでもこの先を考えると、業界全体に向けて何かを発信していかなければいけないと思ったのです。そこで30代の前半から始めたのが、講演活動でした。結果として、10年間で約1000回ほど登壇させていただいたと思います。発信の量だけで言えば、おそらく日本で一番「出汁」について喋ってきましたし、論文なども読み込んで、皆さんに伝えるということをずっと続けてきました。少し変わった取り組みとしては、「鰹武士(かつおぶし)」という格好で発信していたことが挙げられます。昔の文献に「勝男武士」という当て字があったのを見て、自分が鰹のはちまきを締めて、武士の姿でメディアに出ていくのは面白いのではないかと考えたのです。実際にこの活動はたくさんのメディアに取り上げていただいて、NHK の朝の連続テレビ小説『てっぱん』のモデルのひとつにもなりました。ドラマでは鰹節考証として、場面設定や台詞が正しいかどうかを確認させていただく役回りも務めました。並行して、講演で出汁の良さを伝えた方々の受け皿として、ホームページを整備したり、家庭用商品を開発したりと、できる手は一通り打ってきたつもりです。「日本人なら、ちゃんと伝えれば原点回帰してくれるはずだ」と信じていました。ところが実際にやってみると、ほとんど効果はありませんでした。理由ははっきりしていて、出汁を取るという行為そのものが、どうしても面倒なんです。人はやはり、安きに流れる。いくら理屈で説いても、現実の暮らしのなかではなかなか戻ってこられない。40代に入った頃、私はその限界をはっきりと感じるようになりました。発信活動自体は、絶対にやり続けた方がいいものです。ただ私は啓蒙活動家ではなく、ひとりの経営者です。「経営」という視点で考えたときに、このやり方を続けるのは厳しい。そうした結論に至ったのが、この頃でした。前編では、創業からの歩みや家業を継ぐに至った原点、鰹節市場の縮小という業界全体の壁について、お話を伺いました。後編では、1億円を投資した大阪大学発ベンチャーとの共同研究、100%植物性だし「MAGI DASHI -マジダシ-」の開発、世界市場と高齢化社会を見据えた今後の展望について、お話を伺っていきます。木村 忠司/浜弥鰹節株式会社 代表取締役社長。1976年生まれ。老舗鰹節メーカーの伝統製法を守り継ぐ一方で、変化する現代の食文化や世界的な多様性に応える「食のイノベーション」を牽引。近年では、100%植物性でありながら圧倒的な深い旨味を持つ万能めんつゆ・出汁の開発プロジェクト「MAGIDASHI(マジダシ)」を発足。フードテックやファブレスビジネスモデル、大手素材メーカーとの技術協業をいち早く取り入れ、日本の「Umami」文化を世界へ届けるグローバル展開を進める。学術機関との共同研究による出汁の生理学的効果の解明や、アレルギーフリー技術の普及にも尽力。2026年「大阪トップランナー育成事業」認定。 【会社概要】会社名浜弥鰹節株式会社創業1947年代表取締役木村忠司事業内容削り鰹製造販売・だし関連商品の卸売・だしレシピの開発 所在地大阪府大阪市生野区鶴橋2-5-18