インタビュイー:H.I.S.Mobile株式会社 代表取締役社長 猪腰 英知様大手旅行会社エイチ・アイ・エス(以下HIS)のグループ会社であるH.I.S.Mobile株式会社(以下HISモバイル)は、格安SIMを中心とした通信サービスを手がける事業者だ。 「通信費を抑え、人々にもっと“体験”を」という旅行会社ならではの視点を事業の軸に据え、業界の常識とは一線を画したサービス展開を行っている。しかしその道のりは平坦ではなかった。2018年の設立以来、主力サービスの突然の停止や、コロナ禍による売上消滅といった度重なる事業危機に直面。そうした逆境を乗り越え、HISモバイルは通信業界において独自のポジションを確立しつつある。なぜ異業種から参入し、さまざまな困難をいかにして乗り越えてきたのか。代表取締役社長である猪腰英知氏に、その事業成長の軌跡を詳しく伺った。「通信費」を「体験」に―旅行会社が仕掛ける価格破壊月額280円から利用できる音声通話付きプランなど、業界最安水準の価格で個人向け通信サービスを提供するHISモバイル。法人向けには観光DX支援やIoT通信などのソリューションも展開している。 猪腰社長:私たちの事業の柱は、個人のお客様向けの格安SIMサービスです。例えば、音声通話付きでデータ利用量が100MB未満なら月額280円(税込)から利用できる「自由自在2.0プラン」など、業界でも特に挑戦的な価格設定をしています。これは単なる価格競争ではなく、「通信費をできるだけ抑え、その分、豊かな体験にお金を使ってほしい」という私たちの哲学の表れです。事業のもう一つの側面として、法人向けのソリューション提供があります。例えば、観光地のデジタルサイネージや、介護施設の見守りセンサー、インバウンド旅行者向けの翻訳サービスなど、通信を活用して社会課題の解決を目指す取り組みです。単に通信インフラを提供するだけでなく、旅行会社として培ってきた知見を活かし、「通信で人々の生活をどう変えるか」という視点で事業を展開しています。格安SIMでブランドの認知度を高め、そこで得た信頼を基に、より専門的な法人向けサービスを広げていく。この両輪で今、事業を成長させている最中にあります。なぜ通信事業に参入したのか?― 猪腰社長の就任経緯と事業の原点旅行会社であるHISが、まったくの異業種である通信事業に参入した背景には、格安SIMのパイオニアからの提案と、「若者の旅行離れ」に対する猪腰社長自身の強い問題意識があった。猪腰社長:もともと、この事業は日本通信さんからHISへ「HISのブランドイメージと顧客基盤を活かして、一緒に通信事業をやりませんか」というお話があったのが発端です。HISには新規事業に積極的にチャレンジする気風があり、経営陣が事業化を決定。その責任者として、私に白羽の矢が立ちました。私自身は当時、旅行業に20数年従事しており、キャリアの後半10年間は、中四国や北海道エリアの責任者として、広告・マーケティングから人事まで総合的に統括する「小さな旅行会社」のような経営を経験していました。新規営業所の立ち上げだけでなく、既存事業の規模を拡大させる役割も担っており、事業をゼロから育て、推進してきた実績を買われての抜擢だったと思います。長年旅行業に携わり、事業運営についての理解もありましたが、だからこそ「何か新しい、面白いことがしたい」という思いが自分の中にありました。そのタイミングで未経験の通信事業に取り組めるという新鮮さに、強い興味をひかれました。通信業界はまったくの未経験。にもかかわらず、猪腰社長がこの大役を引き受けた背景には、もう一つの強い思いがあったという。猪腰社長:引き受けた大きな動機がもう一つあります。それは「若者の旅行離れ」への強い危機感です。今の若者にとって、スマートフォンの通信費は家計を圧迫する大きな固定費になっています。目に見えない電波に高いお金を払うくらいなら、その分、もっと自分の“体験”にお金を使ってほしい。通信費を安くすることで、若者をはじめ、より多くの人が旅に出やすくなる環境を作れるのではないかと考えました。そういった思いが、この事業の根幹にあるからです。大手ブランドが通用しない現実―計画が頓挫した創業期の苦闘HISの新規事業として始まったものの、当初描いていた計画はことごとく頓挫。ウェブサイトでも店舗でも契約は伸び悩み、大手ブランドの看板だけでは乗り越えられない厳しい現実に直面することになる。猪腰社長:打診からわずか1か月後には記者会見が決まっているという、HISならではのスピード感でプロジェクトは始まりました。料金プランはおろか、ウェブサイトも課金の仕組みも、共同で事業を行うための契約関連の書類すらない状態からのスタートでした。まさに怒涛の1か月で何とか事業を立ち上げたのですが、現実は甘くありませんでした。メディアにも取り上げていただきましたが、初日の契約は100回線ほど。その後は1日に1件か2件という日が続き、ウェブからの申し込みがゼロの日も珍しくありませんでした。月額1,000円前後の商材ですから、これでは到底事業として成り立ちません。またウェブサイトで「良い商品です」と自らアピールしても、信頼性がなければお客様に契約していただくのは難しい。特に通信のような継続的なサービスではなおさらです。この経験から、第三者からの客観的な評価の重要性を痛感しました。そこで後に成果を出すことになる、アフィリエイトマーケティングの開拓に、この頃から地道に着手し始めました。ただ、当時はウェブサイトだけでなく、もう一つの大きな柱も崩れかけていたんです。ウェブサイトでの苦戦に加え、もう一つの大きな誤算が、当初計画の柱であったHIS店舗網の活用が上手くいかなかったことだった。猪腰社長:そして中でも深刻だったのが、当初、計画の柱であったHIS店舗網の活用がまったく機能しなかった点です。理由は複合的でした。まず、お客様の目的がまったく異なるところ。旅行の相談に1時間かけているお客様に「さらに30分、携帯料金の話を…」とは言えません。次に、スタッフと商材の親和性の問題が挙げられます。HISの店舗スタッフは旅行のプロですが、必ずしも通信機器に詳しいわけではありません。一方で、当時の格安SIMの主な顧客層はガジェット好きの男性が中心となっていました。結果として、現場では双方に戸惑いが生じ、スムーズなご案内が難しい状況でした。中四国や北海道で現場を見てきた経験が長かったからこそ、すぐに「このやり方では難しい」と判断しました。これでは、HISの本業である旅行業にも影響を及ぼしかねないだろうと。そこで、親会社の知名度や資産に安易に依存する戦略は、早々に見直す決断に踏み切りました。この時期はウェブでも店舗でも契約が取れない。まさに八方塞がりの状況にあったと言えます。前編では、HISモバイルの事業概要と参入の経緯、そして創業期に直面した厳しい現実について伺った。後編では、そこから新たな活路をどう見い出し、度重なる困難を経て事業を立て直していったのか、その具体的な取り組みを追っていく。