インタビュイー:H.I.S.Mobile株式会社 代表取締役社長 猪腰 英知様「通信費を抑え、人々にもっと“体験”を」。その理念のもと、大手旅行会社エイチ・アイ・エス(以下HIS)の新規事業として誕生したのがH.I.S.Mobile株式会社(以下HISモバイル)である。しかし、前編で描いたのは華やかな成功譚ではなかった。大手ブランドの知名度に頼れば顧客が自然と集まるはずという期待は裏切られ、ウェブでも店舗でも契約は伸び悩んだ。旅行相談に訪れた顧客に通信プランを勧めても響かず、スタッフの専門性ともかみ合わない。創業直後から八方塞がりの状況に直面していたのである。後編では、その閉塞をいかにして突破したのかを追う。海外旅行者向け商品でつかんだ成功の兆しが一夜にして失われた衝撃、訪日客向けプリペイドSIMでの黒字化とWi-Fiレンタル事業の拡大、そしてコロナ禍による売上蒸発という試練。事業は好転と暗転を繰り返し、そのたびに経営判断が問われ続けたのである。度重なる危機の中で猪腰英知社長がいかに決断を下し、V字回復を実現させたのかを明らかにする。そして「旅行×通信」という独自の組み合わせが切り開く未来像と、経営者として貫いてきた哲学について語っていただいた。天国と地獄―『変なSIM』の大ヒットと、突然のサービス停止国内向けが苦戦する中、海外渡航者向け商品にチャンスを見つける。しかし、やっと掴んだ成功は、主力サービスの突然の停止、そしてコロナ禍という2度の大きな壁によって、あっけなく消えてしまうことになる。猪腰社長:国内SIMの販売が思うように伸びない状況が続く中で、私は「旅行会社ならではの強みをもっと前面に出すべきだ」と考えました。そこで目をつけたのが、提携先の日本通信さんが持っていた『変なSIM』というユニークな商品です。既存のSIMカードに専用のシールを貼るだけで、海外でもリーズナブルに通信ができるというもので、当時としては画期的な仕組みでした。旅行に行く人は必ず通信を必要とする。ならば、HISの旅行部門と連携し、お客様に直接届けられるはずだ―そう確信し、夏の旅行シーズンを狙って社内の各部署に協力を依頼しました。店頭での声がけやツアー申込者への配布を通じ、サンプルをお客様に持ち帰っていただいたところ、反応は想像以上でした。「こんなに安く使えるなんて」「旅行中に不便がない」と評判が広がり、500円という手軽さも相まって契約数は一気に増加。夏休みの時期には月に2,000件ものプランが売れ、初めて「事業として軌道に乗るかもしれない」という手応えを感じました。社内の空気も明るくなり、チームの士気が一気に高まったのを覚えています。しかし、その好調は長く続きませんでした。ある朝、いつものようにスマートフォンを確認すると、サービスの根幹となるアプリがAppleのストアから忽然と姿を消していたのです。理由は「iPhoneの中身を改造する仕組みにあたり、ポリシーに違反している」との判断。事前の通知もなく、昨日まで売れていた商品が、一夜にして提供できなくなりました。柱に据えていた事業が突然崩れ落ち、社内は大混乱。まさに天国から地獄へと突き落とされた瞬間でした。成功の手応えを感じていた矢先、一夜にして状況が覆ったのです。それでも立ち止まるわけにはいきません。私はすぐに「国内ではなく、日本に来る旅行者に向ければいい」と発想を切り替えました。当時、訪日客は急増しており、特に中国からの旅行者が大きな割合を占めていました。そこで訪日部門と連携し、外国人向けのプリペイドSIMを投入。これが見事にヒットし、1万枚単位での注文が入り、会社は一気に黒字化しました。失意の中からつかんだこの成功は、チームに再び大きな自信をもたらしました。その利益を元手に、次は海外用Wi-Fiレンタル事業に踏み出しました。HISの旅行ネットワークを活用できる強みもあり、このサービスも順調に拡大。導入から間もなく、過去最高の売上が見えるところまで来ていました。ようやく「安定的に事業を育てられる」と感じたのです。ところが、次に襲ってきたのはコロナ禍でした。世界中で渡航が止まり、空港も閉ざされるなか、海外渡航者向けに依存していた私たちの事業は一夜にしてゼロへ。前年まで積み上げてきた数字も、苦労して築いた仕組みもすべて消え去り、再び奈落の底に突き落とされました。この数年間は、「一歩進めば大きな成果、次の瞬間にはすべて失う」という激しいアップダウンの連続でした。それでも、常に前を向き、次の一手を探し続けたことが、その後のV字回復につながっていったのだと思います。売上ゼロからの大逆転―国内事業にすべてを賭けたV字回復劇海外向け事業が止まる中、国内の格安SIM事業に持っている力のすべてを集中。世の中のテレワーク需要を追い風に、ユニークな作戦でV字回復を成功させる。猪腰社長:幸いだったのは、コロナ禍の直前、政府が携帯各社に乗り換え時の違約金を撤廃するよう求めたタイミングで、どこよりも早く「うちは明日から撤廃します」と宣言したことです。ニュースを見て、即座に決断しました。これがテレビニュースなどで「早速、違約金をやめた会社がある」と取り上げられ、“格安SIM=HISモバイル”という認知が少しずつ広がり、国内のビジネスが上向きになっていました。1日数件だった契約が毎日20〜30件入るようになっていた。その小さな光にすべてを賭けました。この頃、世間ではテレワークやオンライン学習が急速に普及し、通信料金への関心が高まっていました。このチャンスを逃す手はないと、それまで地道に続けてきたアフィリエイターの方々との関係を活かして、インターネットでより多くの人に見てもらえるように力を入れました。また、かけ放題プランなど、他社に先駆けたサービスを「まだ決まっていないうちから『やります!』と発表する」という、スタートアップのようなやり方も積極的に取り入れたことも功を奏したのだと思います。これは、HISグループに根付く「まずやってみる」というスピード感と挑戦の文化があったからこそ実現できた判断でした。結果的に、このコロナ禍の2年間で国内事業は大きく成長し、V字回復することができました。目指すは「HIS経済圏」―旅行と通信を繋ぐ独自の価値と仕事の哲学通信サービスだけでは違いを出すのが難しい中、HISグループの強みを活かしたユニークな価値と、社長として大切にし続ける仕事への考え方とは。猪腰社長:率直に申し上げて、通信サービスだけで有名な大手の会社と違いを出すのは、とても難しいことです。だからこそ私たちは、「旅行会社がやる格安SIM」という私たちだけの強みを大切にしています。具体的には、ハワイで利用できるLeaLeaトロリーの1日乗車券が無料になったり、ワイキキ中心部のLeaLeaラウンジを利用できるといった特典に加え、HISでの海外・国内ツアーの割引や、海外Wi-Fiレンタル「HIS Wi-Fi」無制限プランの50%OFFなどがあります。さらに、グループ会社「変なホテル」の宿泊料金割引など、旅行会社グループならではの多彩な優待をSIM契約者に提供しています。将来的には、楽天経済圏のように、旅行と通信を日常生活の中で繋げる「HIS経済圏」の構築を目指しています。旅行は年に数回かもしれませんが、通信は毎日使うもの。私たちがお客様との日常的な接点を持つことで、HISグループ全体のファンを増やしていけます。その中心になる存在こそ、HISモバイルであり、私たちの担う役割だと考えます。数年後には、普段使いのSIMで海外でもお得に通話もインターネットも利用できることを目指しています。これに、先ほどの「旅行会社ならではの特典」と自社スタッフの店舗配置を組み合わせることで、創業当初には難しかった「旅行と通信を同じ場で提案する」というモデルが現実のものになります。旅行を申し込むタイミングで、そのまま現地で使える通信手段も整えられる―旅行会社ならではの付加価値を、ようやく店舗でも自然に届けられるようになるのです。最終的な目標は、HISグループ内の「通信商社」となり、旅行と通信をあらゆる形で繋ぎ、お客様の体験がもっと素晴らしいものになるようにしていくことです。壮大な未来を描く猪腰社長。そのビジョンを支えているのが、HIS生え抜きの経営者として貫く、徹底した仕事への考え方である。猪腰社長:事業を預かる経営者として結果を出す上で、私が常に意識していることが2つあります。1つは、ステークホルダー。特に親会社や株主の期待や関心を正しく把握し、その期待に応えられるように事業運営を進めることです。そしてもう1つが、事業価値を利益という形で証明すること。これに尽きます。親会社であるHISには、たとえ赤字でも新しい挑戦を応援してくれる懐の深い社風があります。しかし、私はその言葉に甘えようと思ったことは一度もありません。なぜなら、結果が伴って初めて、私たちの語るビジョンは真実味を帯びるのだと思うからです。赤字をずっと垂れ流していたら、どんな理想も“負け犬の遠吠え”に聞こえてしまいかねない、そう自分に言い聞かせてきました。結局、事業の基本は「売上を上げるか、経費を下げるか」というシンプルな原則です。利益というゴールから逆算し、今やるべきことを一つひとつやり続ける。その姿勢こそが、挑戦の機会を与えてくれた人たちに応える唯一の方法だと信じています。インタビュー後記「旅行会社が通信?」という疑問から始まった今回の取材。しかし、猪腰社長の話からは、その2つが「人々の体験を豊かにする」という一点で深く結びついていることが伝わってきました。度重なる危機を乗り越えられたのは、猪腰氏の柔軟な発想と行動力、そして「利益を出す」という経営者としての強い気持ちがあったからでしょう。格安SIMという価格価値の提供にとどまらず、「通信」と「旅」の体験価値を掛け合わせる。そんなHISグループのハブを目指す同社の挑戦は、多くのビジネスパーソンにとってたくさんのヒントが詰まっているように感じました。「旅のプロ」が手にした「通信」という武器は、私たちの体験をこれからどのように豊かに変えてくれるのか。同社が描く未来の実現が、今から楽しみでなりません。