インタビュイー:一般社団法人日本女性起業家支援協会 代表理事 近藤 洋子様2013年に設立された 一般社団法人日本女性起業家支援協会 は、「日本ママ起業家大学」というブランドを通じて活動を展開している。名称に「ママ」とあるが、対象は母親に限らない。子育てや介護、地方在住といったさまざまな制約を抱えながらも、自分らしく働きたい人々に、場所や時間を自らコントロールできる働き方を提示している。従来、日本で「起業」と言えば、短期間で急成長し、右肩上がりの数字を追うことが成功の証とされてきた。だが、日本ママ起業家大学が目指すのは一過性の成果ではない。「自分と身近な人が幸せであり続けること」、そして「長く続けられる事業を育てること」を重視し、そのための思考法やスキルを学べる教育プログラムを提供している。活動の根底にあるのは「持続可能な働き方を社会に根づかせたい」という想いだ。家庭や地域との調和を大切にしながら、無理なく誇りを持って働く。そんな生き方を可能にするために、日本ママ起業家大学は誕生した。では、この独自の取り組みはどのように始まったのか。そこには、代表理事・近藤洋子氏の 原体験と葛藤 が深く関わっている。設立に至るまでの歩みや立ち上げ当初のエピソード、そして未来への展望についてー近藤代表に話を伺った。ママと起業の掛け算 。常識に挑んだ働き方の原点。度重なる試練の中で、「生きがいとは何か」という問いに直面した。そこで見いだしたのが、家庭と仕事を両立しながら自分らしく働く姿であり、その気づきが「ママと起業」という新たなコンセプトを生み、日本ママ起業家大学の原点となった。近藤代表:私はもともとFMラジオのDJやテレビ通販番組の制作・出演など、約20年にわたり「声」を仕事にしてきました。番組の企画から進行、そして自らマイクの前に立つことまで幅広く経験を重ね、その後はオンライン番組の制作やパーソナリティとしても活動してきました。大阪のFM局で番組を担当していたある日、母が余命宣告を受けたのです。親の最期に立ち会えないかもしれないーそう考えたとき、迷わず地元・神奈川へ戻る決断をしました。結婚していた私はその直後に妊娠・出産し、母の介護も重なりました。さらに元夫が仕事を辞め、家庭は一気に不安定な状況へと追い込まれました。生活を立て直そうと、32歳で一般企業への就職を試みましたが、200社近く応募してもすべて不採用でした。履歴書に書けるような資格や経験もなく、自分の力不足や世知辛い世の中を痛感しました。そんな中、幸運にもラジオの仕事に再び戻ることができました。そこで目にしたのは、地域で自分らしい働き方を実現する女性たちです。料理教室や英会話教室などを開き、自分の得意を生かして仕事をしながら、子どもが帰宅するときには「おかえり」と迎える。そんな働き方を実現している人が意外に少なくなかったのです。私は彼女たちにインタビューし、自分の番組で紹介しました。マーケティングや企画の経験もあったため、頼まれてもいないのに「もっとこうした方がいいよ」とアドバイスすることもありました(笑)。この取り組みこそが、後に日本ママ起業家大学へとつながる講座の原型となっていきました。そして私の人生を大きく方向づけたのが、母の死でした。アルコール依存症を患っていた母は、59歳という若さで亡くなりました。そのとき胸に浮かんだのは「この人は幸せだったのだろうか」という答えのない問いでした。しかし、あるとき気づいたのです。人生の長さにかかわらず、「私はこのために生きた」と言えるものがあれば、人生を終えたとき、本人も周囲も納得して人生を終えられるのではないかと。そして私の中に芽生えた答えが「起業」でした。ほかの形でもよかったのかもしれませんが、自分で仕事をコントロールできるという点で、私は起業を選んだのです。2013年当時、「ママと起業」という組み合わせはほとんど前例がなく、周囲からは「斬新だね」と驚かれました。今では“ママ起業”という言葉も一般的になりましたが、当時は「何かを得るには何かを犠牲にする」という価値観が社会に根強く残っていました。実際に設立の構想を語った際も、「仕事と家庭、どちらが大事なのか」と問い詰められたり、「ままごとみたいなことを言うな」と批判されたりしたこともあります。それでも私は、どちらも大事だと答え続けました。「ママ」という言葉を冠したのは、母親だけを対象にするためではありません。むしろ社会に問いを投げかけるためでした。犠牲を前提とした旧来の価値観に挑み、仕事も家庭も両立できるのだと示すこと。これこそが、日本ママ起業家大学を立ち上げた原点なのです。想いを言葉に、言葉が仲間に。日本ママ起業家大学の華やかな船出2013年、想いを同じくする3人の女性が集まり、日本ママ起業家大学の原型が動き出した。法人名やブランド名をめぐる紆余曲折を経て支援者や企業を巻き込んで華々しい船出を迎えた。近藤代表:日本ママ起業家大学の設立にあたり、最初に取り組んだのは仲間を集めることでした。といっても、当初から組織づくりを意識していたわけではありません。何より大切だったのは、自分の想いを言葉にして伝えること。最初は共感してくれる人がなかなか現れませんでしたが、諦めずに語り続けるうちに、その熱意に応えてくれる人が現れました。こうして私を含め、想いでつながった3人による最初のチームが誕生したのです。法人格をめぐっても試行錯誤がありました。当初は「一般社団法人 日本ママ起業家大学」として申請しましたが、「大学」という名称は学校法人でなければ使用できないと却下されてしまいました。書類まで全部そろえて準備万端だったので、「えっ、ここにきてダメなの?」と正直かなり焦りました。急遽「日本女性起業家支援協会」と改め、日本ママ起業家大学はサービスブランドとして位置づけ直すことに。この経験を通じて気づいたのは、私たちが目指すのは単なる起業家の増加ではなく、「自分で人生を切り拓く力」を育むことだという点です。すなわち“起業家的に生きる”という姿勢こそが、活動の原点だったのです。プライベートでも困難が続きました。設立を目前に控えた矢先、家庭の事情で家を手放し、家具も置けない小さな部屋に引っ越さざるを得なかったのです。周囲からは「1年待ってからでもいいのでは」と言われましたが、私は「今こそ変えたい」という強い想いで突き進みました。その熱意は支援者にも伝わり、渋谷のオフィスビル最上階で開催した設立パーティーには約100社が来場し、メディア取材も入りました。まさに華々しいスタートでした。華やかな舞台の陰で ― 日本ママ起業家大学が迎えた分岐点。表向きは順調な拡大を遂げていた日本ママ起業家大学。しかし、その舞台裏では、理想と現実の狭間で組織を揺るがす波が静かに広がっていた。信頼が崩れ、噂が飛び交い、支援者までも巻き込む混乱へ―華やかに見えた青山時代は、実は困難への入り口だった。近藤代表:私はコンセプトを考えたり、新しい事業を生み出したりするのが大好きです。けれども、事業が拡大し、青山に事務所を構えた頃、初めて「マネジメント」という壁にぶつかりました。これまでは自分が先頭に立って走り続ける“プレイヤー”の役割でした。しかし、組織が5人規模に広がると、求められるのは他のメンバーの仕事を調整し、方向性を示す“マネジメント”でした。自分の強みである企画や発信ではなく、管理業務に追われる毎日は、本当に苦しい時間でした。当時は「会社経営はかっこいい」「青山にオフィスを持つことがステータス」といった思いに突き動かされていました。しかし、自分の物差しがまだ定まらないまま進めてしまって、その結果、正直合わない人を理事に迎えてしまったんです。経営者としては尊敬できる方でしたが、日本ママ起業家大学をどう成長させるかという点で考えは大きく異なり、やがて対立は激化。チームは次第に重苦しい空気に包まれていきました。その影響はスタッフだけでなく、卒業生や現役生にまで及びました。まるでクーデターのように悪い噂が飛び交い、「日本ママ起業家大学が大変だ」という話が支援者や経営者仲間にも広がっていったのです。信頼していた仲間までその動きに巻き込まれていくのを見たときは、本当に心が折れそうになりました。もちろん、私自身の力不足も大きかったと思います。組織が大きくなれば、リーダーに求められる役割は変わります。その変化に十分に対応できていなかったのは事実です。スタッフたちも疲弊し、信頼関係を立て直すことは難しいと判断しました。そこで私は、一度すべてを解散することを決断したのです。青山の事務所を自ら片づけ、掃除をして、完全にリセットしました。あの時期は、外から見れば華やかに映っていたかもしれません。しかし実際には、まさに困難の日々でした。しかし、組織が崩壊してもなお私についてきてくれる人もいました。そして「仕事は自分でコントロールしたい」という原点の想いが消えることはありませんでした。その信念こそが、次の再出発へとつながる力になったのだと思います。前編では近藤代表が日本ママ起業家大学をスタートする原点や、設立当初のエピソード、組織マネジメントの苦労についてお話を伺いました。後編ではさらに日本ママ起業家大学の再スタートと、コロナ禍での苦悩、今後の展望についてさらにお話を伺います。