インタビュイー:株式会社まるだい運輸倉庫 代表取締役社長 秋元美里様創業68年を迎えた老舗物流企業、株式会社まるだい運輸倉庫。小田原市に本社を構え、地域に根ざした物流事業を展開してきた同社は、いまや健全な財務基盤を築き、持続的な成長を続ける企業へと再生を果たしている。しかしかつては、40億円規模の借入、分断された組織、現場と本部の断絶が重なり、経営は崩壊寸前の状態にあった。そうした危機の中、経営を引き継ぐことになったのが、代表取締役社長の秋元美里氏である。秋元氏は一般社員として家業に入り、数々の構造的な制約と向き合いながら、一つひとつ意思決定を重ねていった。現場に埋もれていた声を拾い上げ、非効率なやり方を見直し、会社の構造そのものに手を入れていく。誰もが難しいと考えた再建の歩みは、組織と経営のあり方そのものを問い直すものでもあった。前編では、株式会社まるだい運輸倉庫 代表取締役社長 秋元美里氏に、秋元代表が家業に戻る決断に至るまでの葛藤や現場で直面した組織の課題、崩壊寸前の会社の中で使命感が芽生えていく過程について、お話を伺った。東京で築いたキャリアを離れ、家業に戻ると決めた日順調に築いてきた東京でのキャリアを離れ、家業に戻る。帰郷を選んだ背景には、創業者への敬意と継承への責任感があった。秋元代表:当社は神奈川県小田原市に本社を構え、小田原市および南足柄市の複数拠点で事業を展開している物流会社です。創業68年を迎え、運送業と倉庫業を中心に、地域に根ざした事業を続けてきました。祖父が立ち上げた会社であり、私にとっても幼い頃から身近な存在ではありましたが、将来的に自分が家業を継ぐことを意識していたわけではありません。むしろ当時の私は、まったく別のキャリアを歩んでいるという感覚のほうが強かったと思います。実際、私は秋葉原の会社に就職し、24歳のときに社内ベンチャーを立ち上げました。事業は順調に成長し、26歳で取締役を任されるまでになりました。スピード感のある環境の中で、挑戦した分だけ成果が返ってくる手応えがあり、仕事にも大きなやりがいを感じていました。だからこそ、小田原に戻るという話は、自分にとって非常に大きな転機でした。30歳のとき、当時社長を務めていた叔母と母から「戻ってきてほしい」と頼まれたことが、直接のきっかけです。それ以前から「この会社はこの先どうなっていくのだろうか」と漠然と考えることはありました。ただ、最終的に家業に戻る決断にもっとも大きく影響したのは、やはり祖父の存在です。私にとって祖父は、尊敬という言葉だけでは言い表せないほど大きな存在でした。その祖父が築いた会社である以上、その行く末から目を背けることはできませんでした。一方で、当時の気持ちは決して前向きなものではありませんでした。東京で築いてきたキャリアと、小田原で向き合うことになる現実とのあいだには、あまりにも大きな隔たりがありました。現在であれば、後継ぎ問題の解決策として外部から経営者を招聘する方法やM&Aという選択肢もありますが、当時はそうしたやり方が現実味を持つ時代ではありませんでした。何より祖父が築いた会社を手放すという判断はできませんでした。そうして最終的に、私自身が戻って家業に入る決断をしました。ただ、その時点では会社の中が実際にどうなっているのかをほとんど理解しておらず、入社後にはじめて、その実態が想像以上に厳しいものであることを痛感することになります。働くほど浮いてしまう──変化を拒む組織の内側家業に戻った秋元代表が現場で直面したのは、これまでの常識が通じない職場の現実だった。働くことへの温度差と変化を拒む空気の中で、組織の深い課題が浮かび上がっていったのである。秋元代表:入社してすぐに、仕事に対する姿勢や職場の空気に強いカルチャーショックを受けました。午後3時頃にはすでに仕事が終わったかのような空気が流れ、お茶を飲みながら雑談をしている。業務中も私語が続いていて、私にとっての「仕事をする」という感覚とは大きく異なっていました。率直に言えば、「これでお給料をもらっているのか」と感じる場面が何度もありました。配属されたのは、経理部門の中でも業務のシステム化を担う部署でした。周囲としては、私をその部署に配属すれば現場との接点を最小限にできる、という意図もあったのだと思います。一方で、IT化が進んでいく時代を考えれば、その部署は会社全体を変えていく起点にもなり得る場所でした。しかし実際には、業務を効率化しようとしたり、新しい仕組みを導入しようとしたりすると、それだけで露骨に嫌がられる空気がありました。少し踏み込んで動くだけで「生意気だ」と受け取られ、余計なことをするなという反応が返ってくる。本気で仕事に向き合おうとすればするほど、無駄が当たり前になっている環境とのギャップが、より鮮明に見えてきたのです。当時は、そうした価値観がすでに職場の前提になっているのだと感じていました。生活が安定していればそれで十分であり、仕事に目的意識を持つ必要もない。その空気の中では、変化そのものが歓迎されません。ただ、その前提のままでは会社は変わらないという想いも強くありました。だからこそ、現場に反発されながらも、どうすれば前に進められるのかを探り続けていました。40億円の借金と孤立の中で、使命感が芽生えていった現場の違和感に続いて見えてきたのは、会社の土台を揺るがす深刻な経営問題だった。孤立を深めながらも向き合い続ける中で、秋元代表の中には少しずつ使命感が芽生えていったという。秋元代表:現場で感じていた違和感と並行して、決定的だったのが財務の実態でした。たまたま見つけた試算表に目を通したとき、借入金が40億円にのぼっていることを知りました。その数字を見た瞬間、言葉を失ったのを覚えています。会社の経営は、借入を前提とした構造になっていました。運転資金だけでなく、賞与ですら借入で補填していたのです。祖父の代から積み上げてきた信用があったため、金融機関としても貸し続けざるを得なかったのだと思います。本来であれば、どこかで止まるべき水準をすでに超えているが、それでも借りられてしまう。ほとんど際限のないような融資構造になっていました。外から見れば、売上もあり、従業員もいて、トラックも走っている。会社は一見、普通に回っているように見えますが、中身はすでに崩壊寸前の状態でした。このままでは確実に立ち行かなくなるという危機感があり、上層部にも直接話をしに行きました。けれど返ってきたのは、「お前は目の前のことだけやっていればいい」という反応でした。それでも動かないわけにはいかず、改善に向けて手を打ち続けていましたが、当然のように周囲との摩擦は強くなっていきました。当時の社内は、創業者であり会長だった祖父が亡くなったあと、大きく二つの派閥に分かれていました。どちらにつくかで立場が決まり、その力関係の中で物事が動いていたのです。そこに外から入ってきたような立場の私が、経営や数字の話をし始めるわけですから、両方の派閥から疎まれている感覚がありました。加えて、上層部は全員男性で、現場も大半が男性でした。8割以上が男性で、会議室に女性が一人もいないことも珍しくない。派閥の力学と閉じた男社会の空気、その両方に同時に向き合わなければならない状況でした。それでもやり続けることができた理由の一つは、社内ベンチャーの頃から一緒にやってきた女性メンバーの存在です。18歳の頃からの付き合いがあり、彼女もこの会社に加わってくれました。生活も環境も大きく変えてここに来てくれている以上、中途半端な形で終わらせるわけにはいかないという想いが強くありました。彼女が一緒にいてくれたからこそ、戦い続けることができたのだと思いますし、今もなおこの会社で支え続けてくれています。入社してから5年ほど、私は自分から現場に足を運び続けました。現場で働く社員に会えば会うほど、関わる人数が増えれば増えるほど、自分が背負うものも大きくなっていきました。いつの間にか、これは自分一人の問題ではなくなっていたのだと思います。そうした積み重ねの先に、「この会社を立て直さなければならない」という使命感が、少しずつ自分の中に形づくられていきました。前編では、秋元代表が家業に戻る決断に至るまでの葛藤や現場で直面した組織の課題、崩壊寸前の会社の中で使命感が芽生えていく過程について、お話を伺いました。後編では、産休明けに直面した経営危機や現場の声を起点に進めた再建改革、そして次の世代に選ばれる会社を目指す今後の展望について、お話を伺っていきます。秋元美里/株式会社まるだい運輸倉庫 代表取締役社長日本政策金融公庫女性経営者の会「赤い靴」横浜支部 副幹事小田原卸商業団地協同組合 理事小田原市教育委員会 委員小田原箱根商工会議所 副会頭小田原警察署協議会委員【会社概要】会社名株式会社まるだい運輸倉庫創業1958年代表取締役秋元美里事業内容運輸事業倉庫事業業務委託事業所在地本社 神奈川県小田原市成田480-5サイトURLhttps://www.marudai-unyu.com/